礼拝メッセージ
2008年3月30日

「恐れではなくて、平安」
ヨハネの福音書 20章19-23節

弟子たちの状況
イエスの十字架に架けられての死は、弟子たちにとっては、とにかく悲しいできごとだったでしょう。弟子たちの心の中を想像してみると、イエスの死に対しての悲しみ、自分たちもイエスのように捕まって、十字架に架けられるかもという恐れがあったのではないでしょうか。

聖書の薦め
旧約聖書では、「恐れるな」、「雄々しくあれ」という薦めの言葉が繰り返し出てきます。新約聖書では、「平安」という言葉が繰り返しでてきます。神様が私たちに望んでいることは、恐れを持って生き続けることではなくて、平安を得ることです。

聖書で言う平安とは
聖書に出てくる人物達は、いつも何かしらの問題と闘っています。その点からも、聖書は私たちに平穏無事な生活を約束しているとは思えません。人生には必ず色々なことがあるのですが、その中で平安を受けることができる。これが聖書の約束です。

なぜ私たちは平安を受けることができるのか

  1. 神様との関係に与えられた平和。(ローマ5章1節)私たちは罪を責められる存在ではなくて、神様が一方的に赦してくれて、神様の子とされています。
  2. 平和の神。(ローマ15章33節)私たちを子としてくれた神様は平和の神と呼ばれる方です。平和の神が私たちを導いてくれるのです。
  3. 平和を与えてくれる神。(第二テサロニケ3章16節)神様は私たちに「恐れるな」と言うだけの方ではなく、心に平安を与えてくれる方です。

平安を受けた私たちは遣わされます(21節)
イエスは弟子たちに対して、自分が父なる神から遣わされて、救いの道を与えに来たように、弟子達も救いの道を他の人に与えるために遣わすと言いました。これは、イエスのように十字架に架かることではなくて、イエスによって与えられた救いの道を伝えにいくことです。

息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」(22節)
この聖書個所は創世記2章7節の「命の息をふきこまれた」を連想させるものです。創世記で人が命の息を受けたように、イエスの弟子たちは新しい命として、聖霊を受けました。このことは今の私たちにも引き継がれています。私たちはイエスを救い主として受け入れることにより、新しい命として聖霊を受けます。そして、神様の大使として、神様のことを伝えに行く者として、それぞれの場所に遣わされていくのです。

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