信仰告白

(2017年6月18日、オーチャード・ビーチでの受洗式にて)

  なぜ今聖書を読み教会へ行き牧師先生の話を聞いているのだろう。いつから素直に求め始めたのだろう。20歳の時から仏教に傾倒、修練を通じてより人間性を高めよう、精進しよう、と頑張ってきましたが、それは気持ちだけで、常に出来ない自分、ダメな自分、分かっていても実行が伴わない罪人の自分がいました。それでも同じく道を求める仲間、先輩が引っ張って行ってくれていました。しかしそれも日本とアメリカという距離と出来ない自分がそのつながりを疎遠なものにしていきました。それでも常にご先祖様、ご神仏がおられ守ってくださっていると信じていました。こんなダメな私を、と思うと益々そこには良心の「負債」が増えていく一方でした。

  そんなある時、聖書を毎晩読む主人と仏教の私の間には心の触れ合いが乏しく、外見は尊重し合う二人、心は離れっぱなし、二人で一緒にすごす時間の何と少ないことか、ということに気づきます。共通の行動が全くありません。このまま人生が終わっては何のための夫婦であったか意味がないように思い始め、勇気を出して歩み寄ることにしました。というのも夫に従うのが妻の務めと叩き込まれていたからです。その勇気ある第一歩が教会へ一緒に行くということでした。たまたま共通の友人の洗礼式があり参加、初めて礼拝というものを見ます。いい話が聞けるし、気持ちが穏やかになるし、神様は神様、いいものはいい、そんな肯定的な気持ちで、でも一線を画していました。

  こうして一年が経ち、やがて引っ越し新しい教会に新しい牧師先生も赴任され、この辺りから頻繁に二人で礼拝に参加するようになります。ところが毎回教会へ行くと涙が出てしようがありません。随分泣き虫の私に戸惑いますが、泣くままに。というのも最低の罪人の私に、そのままで宝物、そのままで赦されているんだよ、というメッセージが信じられないほど嬉しかったからです。温かいものが沸々と感じられ、こんな私でもいいの?と恐る恐る、でも安心して身を預けられる気がしました。

  私はセルフ・エスティーム(自尊心)が異常に低く自分に自信がなく常に自分を責めてばかり。とてもストレスが溜まり何とか自分をもっと好きになりたい、何とかこの自責の習慣を打破したいと、以前、友人が始めた10人ほどのサポートグループで月1回、「〜〜ちゃん大好き」と自分自身に話しかける練習を皆でしていました。でもなかなか自分を好きになれません。批判的で欠点ばかり目につき自己否定に陥る一方。内に潜む良い子の自分が悪い子の自分を冷たい目で見ているのです。

  誰でも自己の中に善と悪の両面を内在させています。悪である自分を拒否することで善であるもう一人の自分を守っているのかもしれません。その認められない自分、欠点だらけの自分を批判しているうちは心はバランスを失い平安は宿りません。その欠点を持つ自分を内なる自分が受け入れ共感してこそ、またそれを温かく包むことによってのみ、根底にある自己の問題を変えていくことが可能と思います。

  しかし「赦し」の方法が分からず、自分の中で悶々と長年燻り続けていました。こうして怒りと恨みをため込んだ罪人には毎日が暗闇、聖書で言う「すでに裁かれている」(ヨハネ 3:18)と、すでに地獄にいる状態でした。最低の自分に襲ってきたのが、身体の不調。しかし、何よりも辛いのが心の平安がないことでした。不安、恐れ、恨み、否定、後悔、弱さ、我欲、それらが襲いかかり、心が苦しくてたまりません。この手に負えない何者かから解放されたいと私の心が号泣していました。どうやって生きていけばいいのか、気がつくと「神様助けて! 」と叫んでいました。「私の命を全て預けますから、助けて! 私はもうお手上げです」と。

  その日の宮内牧師のブログを開けると「神様の救出計画は進行中です」

  2015年1月11日、田辺さんが私の聖書を届けて下さいました。教会に通い始めて一年、その日初めて自分の意思で聖書を開けます。目に飛び込んできたのが、聖書と思えない情熱的な詩! 聖書にこんな文章があるの!? 驚いて聖書の表紙を確かめたほどです。神様からのラブレターだと思うと嬉しいような。それはさておき、その後3度続けて同じメッセージの箇所を偶然開けます。それは「私の恵みは十分である。私の力は弱さの中に完全に現れる」(コリントII 12:9) 弱くてもいいんだ、弱さが財産になるんだと思うと少し心が軽くなったような気がしました。さらに二人の牧師先生より同時期に全く同じメッセージ、「あなたの罪は赦された」を耳にし、これら全て神様から私への力強いメッセージと思わせていただきました。

  「私が造った。私が担い、背負い、救い出す」(イザヤ書 46:4)何と頼もしいことでしょう。その頃から「私にはこのイエス様の赦しに頼るしかないんだ。イエス様の愛を杖に再出発させてもらう他ないんだ。イエス様に会うために主人が遣わされたのかもしれない」とまで思うようになります。このころから主人は稀にしか教会に来なくなり、立場が逆になっていました。

  そしてこの5月31日、朝から偶然が続く不思議な1日でした。結局、ロングアイランドの友人とランチをするのですが、その帰り道、今日の日は神様が整えてくださった日と確信します。帰路ロングアイランド高速道路を走りながら、はっきりとビジョンが見えた気がしました。

  具体的に言うと、欠点ばかりの自分を大きく包みその出来ない自分をもそのままで受け入れ共感していくこと、その作業を自分一人でやっていくことの難しさ、いくら「〜〜ちゃん大好き」を繰り返しても「嘘でしょ」というもう一人の自分との戦いで自力では至難の技です。しかしそこにイエス様の無条件の愛と赦しを受け全てを主に委ねることで、自分自身を受け入れる作業が非常にしやすくなります。また主を仰ぐため間違った方向へいきません。イエス様の無限の愛を通して自分を受け入れていくことで命の根源そのものに共感していけます。「自己の内で完全に一つになったその命が神の慈愛なんだ、天地を創造された大いなる方の愛なんだ」と思うと、安心して主イエスだけを見上げて歩けることに気がついたのです!

  バックにはBen Speer の「The Brush」の歌が流れていました。その歌のごとく、あたかも人生のキャンバスとその筆をイエス様に戻し委ねるように、そこには素直な気持ちで自分の人生の選択をする自分がいました。私は自分が幸せになりたい。私にはイエス様の赦しに預からなければ、自己の内にある二つの敵対する存在を受け入れることは不可能。イエス様に全面的に委ねることにより安心して欠陥だらけの自分を受け入れ、平安を得る、私の幸せを得る方法はこれしかないと思うと涙が出て止まりませんでした。すると、涙で曇る目の前を誰かがこちらを見ているのに気がつきました。Bob's Furnitureのトラックが高速に入ってからずっと前を走っていたのです。その優しく笑ったボブがイエス様の姿と重なり(あご髭があり少々似ているのです)まるで招いてくれているかのようで、ずっとそのトラックの後をついて走っていました。

  しかし一朝一夕に「罪が赦された」ことを身体で覚えることはできません。常に不安が心に広がりどうすればイエス様の十字架と罪の贖いが実感として感じられるのか、分かりません。神様の絶対的な愛、絶対に見捨てない無限の愛を聞きたくて教会へ。ただ言えることは、もう私は自分で良き選択ができる。いつも神様が共におられ、絶対に見捨てない愛のイエスさまに安心して身を委ねることが許される。受け止めてくださる。そう信じることができるようになったということです。

  最後に特記したいのは、この信仰告白を書いている最中、何も分からない私に毎日のように神様からメッセージが寄せられました。神様はそこにおられます! 手を引いて導いてくださっています。(それらメッセージは宮内牧師が解釈してくださいました)

  ここに到達するまでには多くの方たちにお世話になっています。教会の門を開けてくださった私の友人、立石牧師先生ご夫妻、NY日本語教会の皆様、そして足踏みばかりして頑なな私をいつも辛抱強く、諦めずに手を添えるようにして導いてくださった宮内牧師先生他多くの皆様に心より深く深く感謝いたします。また45年間一緒にいてくれた主人にこれまでのお詫びと、そしていつも支えてくれていた家族に感謝の気持ちを伝えて私の信仰告白と致します。

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