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礼拝メッセージ
2007年11月4日
「赦すこと」
マタイの福音書 18章21〜35節
人が人を赦すことは本当に大変なことです。特に怒りの感情が常に心を支配している人には、赦すということが不可能なことのように思えるでしょう。神様は私達のそんな状況を理解しつつも、赦すことの大切さを教えています。この学びを始める前に確認しておくべきことは、この教えは「あなたを」あるいは、「誰かを」赦すことができないから、だめな人だと裁くためのものではなく、私達は程度の差こそありますが、赦すことが本当に困難な者なのだということを理解しつつも、神様はいかに私達のことを赦し、和解してくれているかを知り、そのことを通して、自分達も人を赦すことを学べます。
マタイ18章21−35節のたとえ話
1万タラント貸しを持つ男が、私達一人一人を表している。
100デナリの貸しを持つ男が、私達の周りにいる人を表している。
王は神様を表している。
獄吏(ごくり)はおそらくサタン(悪魔)のことを表している。
このたとえ話のKeyは借金の額です。1タラントは6千デナリで、1デナリは一日分の労賃です。1デナリを1万円とすると、100デナリは100万円。1万タラントは6千億円になります。人は神様の前にあっては、自分で償うことができないほどの罪があるにも関わらず、イエス様によって赦されたのに、自分の周りにいる人の罪には寛容さがまったくなくていいはずがなく、そのような者はサタンに縛られた者になると教えています。サタンに縛られた者というのは、救いを受けているかどうかの問題ではなく、神様からの恵みを受け損ない、サタンから来る悪い思いに支配されることを言っていると思います。
注意点
- ここでは、赦してくださいと言ってきている者を赦すことの大切さを教えています。
- もし、誰かがあなたに対して悪いことをしているのに、それを改めようとしないのならば、その人との関係は悪いものになることは確かです。
- しかし、赦してくださいと言ってこない者は赦さないで言いというものではなく、自分の中では赦さなくてはいけません。そうしなければ、怒りの感情が私達を悪い方向に導きます。ただし関係を回復することは困難になります。
- 聖書の約束を見ると、イエスは私たちが悔い改める前に、すでに私たちのために十字架に架かっています。神様が私たちに対して怒りを通り越して近づいています。
- 赦すには、自分の決意と神様の助けが必要です。(エペソ6:10−18)
- 赦すにあたって、自分の心が神様の癒しを必要としている時もあります。
- 人によってはカウンセラーのような助けを必要とすることもあるが、最終的にはいつでも自分の問題であることに変わりはありません。
- 神様は私たちを赦しただけではなく、和解してくれました。
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