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礼拝メッセージ
2005年5月29日
「信仰について」
マタイの福音書 7章21〜29節
今回のテーマは、私達の社会でクリスチャンと呼ばれている者全てが救われるわけではないというものです。ここでいう「救われる」というのは、この地上での生涯を終えた後に神の国で永遠の命を受けることです。では、誰が救われているのかということが、大切なテーマですが、その学びを始める前に大切なことを一つ。私達は神様ではないので、私達が誰かを指してあの人は救われているけれど、あの人は救われていないと考えることには充分に気をつけましょう。聖書を通して与えられた約束に基づいて救われる人がいることは知っていますが、救われているか、救われていないかは神様の知ることです。
にせ預言者に気をつけなさい (15〜20 節)
羊のふりをしてやってくる狼で、その人たちの実によって見分けられる。ここでは狼を貪欲と表現しています。実によって見分けられるというのは、つまりその人がいることによってどのような影響を周りにおよぼしているかによって分かると言えるでしょう。
主のみ名よって奇跡を行っていた人も、救われていないことがある (22〜23節)
奇跡を行った者全てがとは決して言っていない。ただし、奇跡という著しいものを起こす者でも、救いを受けているかどうかとは関係がないと言っています。
岩の上と砂の上に建てられた家
13節には「狭い門」という言葉も出ています。岩の上に建てるのと、砂の上に建てるのは明らかに砂の上に建てる方が楽ですが、すぐに倒されるでしょう。真実の信仰を持つ者と、持たない者の違いをこのようにたとえました。
真実の信仰とはイエスの言葉を聞いて、それを行う者
私のこれらの言葉を聞いて (24 節 ) と言っています。これは 5 章から始まる「山上の垂訓」と呼ばれる話の最後の言葉です。山上の垂訓に書いてあることを完全に行なうことは無理ですが、私達がその言葉を真剣に聞き、その言葉に従おうとすることはできます。そして従えたならば、神様は私達を大いに祝福するように約束しています。従えなかったならば、キリストの十字架の血潮のゆえに赦されると約束しています。大切なのは本当に聞いて、従おうとしていたかなのです。そしてもう一つは、神様の前に自分は罪のある者だと認めて、その罪を悔い改めて、キリストの十字架を仰ぎ見たかということです。
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