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礼拝メッセージ
2005年1月23日
「痛む時」
この教会に11歳と8歳の息子さん達を連れて、一昨年の秋から去年の夏までの間に定期的に参加しておられた後藤喜恵さんが、 3年弱の闘病生活の末、一昨日天に召されました。そのためいつもでしたらその日の聖書箇所から学ぶのですが、今日は「痛む時」と題して、痛みについて学びたいと思います。
自分の生活の中で、心を痛めることがある時に、その問題を直視しないこと、痛んでいることを直視しないことは、精神的な病の根源になる。
私達は問題に直面した時に、「どうしてこんなことがおこるのか」と疑問を持ち、その理由、わけを知りたいと思う。「目的」があるのならとおもうのですが、多くの場合、理由を知ることはできない。
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痛みは変わりたいという動機を与えてくれる。(ルカ15章14−18節)
人は痛みがある時に、その痛みから逃れる方法を考えて、色々な行動をおこす。
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痛みは神様について考える時を与えてくれる。(詩篇119篇71−72節)
神様は幸せを通して語るが、痛みを通してさらに語ってくださる。(ヘブル12章7節)
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痛みは深い成長へと導く。(申命記8章2節)
私達は試され、自分自身を知り、成長へと促されている。(イザヤ48章10節)
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痛みが特別な祝福のもとになることがある。
ヨセフの人生を振り返るとそれが分かる。(創世記50章20節)
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痛みは神様自身を私達に教えてくれる。
私達は痛みの中で、主を呼び求めると、主はその叫びは聞いてくださり、主ご自身を与えてくださる。(詩篇23編)
痛みの中にある人は、納得のいく理由を知りたいと思うことでしょう。しかし、私達は多くの納得のいく答えを見つけ出すことができない。しかし、私達は神様にあって期待することができる。私達を信頼することによって、神様からの平安を受けることができる。
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