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奥野 翼
(2000年3月)
"シオンの娘よ。子を産む娘のように、みもだえし、もがきまわれ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まりそして言う「シオンが犯されるのをこの目でみよう」と。しかし彼らは主の見計らいを知らず、その謀を悟らない。主が彼らを打ち場の麦束のように集められたことを。
シオンの娘よ。たって麦を打て。私はあなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる。"(新改訳
ミカ書4:10〜13)
私はクリスチャンホームという恵まれた環境のもとに生まれ、子供の頃から教会や家庭で神様の話を聞いたり、神様に祈ったりして育ちました。イエス・キリストを自分の意志で信じるようにもなりましたし、教会の中でも活発だったと思います。
ちょうど思春期の頃から自分の罪という事を感じるようになり、聖書の中のローマ書でパウロが「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」というような心境でした。プライドから、誰に相談する事もなく、自分の中にごまかしが成立していきました。問題の答えはイエス・キリストにあるということを信じきらずに…「真剣に悩みつづける」というポーズを選んだ様な状態でした。何度も「神様なんとかして下さい」と祈りましたが、今から考えると「解放してくれるなら何でも良い」という、必ずしも「信仰」と呼べるか分からない、自分中心の態度だったかもしれません。そんな態度でしたから、結局は自分の内面での矛盾に対し不感症になっていく以外なかったように思います.
高校卒業後、大学に進学しました。目的を持って選んだつもりの大学だったのですが、周りの学生や先生たちの雰囲気があまりにも期待とずれており、次第にやる気を失いはじめ、半年が過ぎた頃、精神的にも少し追いつめられていたのですが、すべてをやめてしまおうという衝動に駆られバイトもサークルも、そして大学も(休学という形で)やめてしまいました。というのも、以前からの願いでもあった「留学」という最後の望みが実現したからです
19歳の夏、ニューヨークにあてもないままにやってきました。誰も自分を知らない街。自分も誰も知らない街。そんな孤独を望んでいたのだ、と思いながらも、外面上は何かと忙しく生活を続けていました。英語にも慣れ、だんだんと街にも慣れ、とても楽しんでいましたが、その内面では相変わらず矛盾を抱えていました。一方では教会に行き、聖書も読み、祈り、大学での勉強も熱心にしていましたが、もう一方でニューヨークという土地柄、すぐ手の届く範囲にある「罪」に手を染めていきました。次第に、両極端に走っていく二人の自分を止める事が出来ないままに数年経ち、残ったものは憎しみだけでした。
自分の状況を自覚させられたのは当時のルームメイトとの人間関係でした。ある日とつぜん彼が口をきいてくれなくなったのです。彼は私と同じ大学・学部にいたので一緒に過ごさねばならない時間も多々あり、非常に困惑しました。理由をさがそうにも心当たりが全然ない…彼に直接聞いても憎しみを込めた黙殺が返ってくるばかり。彼に会いたくない、家に帰りたくないという理由で、丸1日教会に座っていました。その時に、彼に対する私の態度、大げさに言えば私の生き方、私の存在そのものが原因なのだ…と思い当たりました。プライドに満ちた私に謝罪する勇気をくれたのは神様だったと思います。謝った際、ルームメイトにはひどい事も言われました、しばらくして彼は別の家に越して行きました。(随分後になってからですが和解する事ができました。)私の心はずたずたでニューヨークにいるのが辛くてしょうがなかったので日本に帰省しました。
日本に帰省してから、昔通っていた教会に行った時、先生方やクリスチャンの人達と普通に会話をしたりしている時に、妙な違和感を感じました。悪い感じではないのですが、何か自分の肌に合わない様な・・・それは、利害関係ではない別のもので結ばれている人達の中に久々に居たからだったのです。そして、私のNYでの生活が利害関係にまみれたものだったか、痛感させられました。私は本当に自分中心の生活をしていたんだな・・・と改めて知り、神様を中心としていきたいと願うまでになりました。
NYにもどってから、NYJCの方々を含め、いろいろな方々との出会いを通して、それまでの自分の生き方や、意識を変えるいろいろな事が起こり始めました。私には到底不可能な事が、神様に出来るのだな・・・と何か懐かしい期待のような、希望の様なものをおぼろげに感じはじめました。
私はあるリトリートに誘われ、シアトルにいきました。そこである人と出会い、仲良くなりました。彼が最終日に私のために祈ってくれた時に、今まで神様と自分だけしか知らなかった罪…を大部分告白したのです。自分でもなぜそんな事をしようと思ったのか驚きましたが、何故かそうする事が良い・・・と感じたのです。涙と鼻水で話になっていなかったような気がしますが・・・その人は私の話を聞いてくれました、告白の途中、不思議な事に“こんな自分中心に生きている私を愛し、その罪から救うために、イエス・キリストは十字架で死んだのだ・・・彼はそれを成し遂げたのだから・・・そうだ、私は・・・赦されている・・・私は赦されたんだ!救われたんだ!”と喜びが溢れ出てきたのです。信じられないことに、あの内面に深々と口を開いていた矛盾の溝は彼方に沈み、喜びがそれを覆ったのです
神は実に真実なお方です。私が信じて求める前から用意しておいて下さり、私を待ち続け、チャンスを与え、あふれ流れる喜びを下さいました。はじめに引用したローマ書の続きには"私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します…なぜなら、キリストイエスにある、命の御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。"(新改訳 ローマ7:25、8:2)とあります。神は確かに“したくない悪をする”原理から私を、キリストの十字架によって、解放して下さいました。本当に感謝です。
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